伏見稲荷」カテゴリーアーカイブ

ちょっとプレミアムな旅はいかがですか?

皆さんこんにちは。

大阪ならびに京都方面から伏見稲荷大社にお越しになる際に、京阪電車を利用する方も多いかと思います。


本日は、その京阪電車をご紹介させて頂きたいと思います。


京阪電車は、1910年に設立され、1913年に開業しました。当時、蒸気機関車が主流だった中で電気鉄車を採用したのは画期的でした。環境に優しい技術を早期に取り入れた先駆者とされています。


また、1971年に登場した3000系特急車両は、「テレビカー」という世界初の電車内テレビが設置された車両でした。

当時としては画期的で、話題を呼びました。なかなか先進的な取り組みをはじめる会社のようですね。


京阪電車の主要路線である京阪本線は、大阪府の淀屋橋駅と京都府の出町柳駅を結んでいます。

この本線以外にも、いくつかの支線があり地域住民や観光地へのアクセスを支えています。

その中の一つをご紹介すると、宇治線は、中書島駅(伏見稲荷駅から10分~15分程)から宇治駅を結ぶ路線で、平等院など宇治の観光地へのアクセスに便利です。


京都方面から伏見稲荷大社に来られる際に是非ご覧になって頂きたい景色は、京阪本線の三条駅から七条駅の区間です。

この区間は、鴨川の川沿いを走行します。ここで見られる景色は京都ならではの風情があり、多くの観光客に愛されています。この区間の居眠りは厳禁です。(笑)


この京阪電車ですが、プレミアムカーという淀屋橋と出町柳を結ぶ京阪本線の特急列車に連結されている有料指定席の車両があり、新幹線のグリーン車並みのプレミアム感漂うシートに座ることができます。

通常の乗車券の他に、プレミアム券を買う必要がありますが、400円もしくは500円(乗車する区間によって値段が変わります。)で購入可能で、比較的リーズナブルに贅沢な電車の旅を楽しめるのでお薦めです。


最後に、とっておきのグルメ情報です。

大阪方面から行くと最終駅となる出町柳駅を降りてすぐ、「出町ふたば」という老舗和菓子店があります。

ここの名代豆餅(なだいまめもち)は、絶品で特に人気です。

時には行列が出来るそうです。

京阪電車をご利用の際は、是非、召し上がって頂きたいです。

四季折々の美しさ

皆さんこんにちは。

寒波がやって来たせいで、一気に冷え込んできましたね。

東北や北陸地方では、かなりの積雪になっているようです。

京都においては、ひょっとすると雪化粧をした美しい日本庭園が見られるかもしれませんね。

今回は、伏見稲荷大社に参拝された後に、是非、立ち寄って頂きたい素晴らしいスポットを一つ紹介させて頂きますね。

伏見稲荷大社の本殿から徒歩で10分~15分で行けるスポットなんです。

「光明院」というお寺ですが、この「光明院」は、紅葉のスポットとして有名な東福寺の塔頭(たっちゅう)で、室町時代初頭 1391年に創建された歴史あるお寺です。特に枯山水庭園である「波心庭」は、石が波のような模様を描いていて、見ていると本当に心が和みます。枯山水と言えば、東福寺の「方丈庭」も魅力的ですが、それとは少し趣が違うように感じます。


またこの「光明院」が素晴らしいのは、春の新緑・秋の紅葉・冬の雪景色といったその季節毎の変化を楽しむことが出来ます。

私は、秋の紅葉の時期に行くことが多いのですが、サツキやツツジが咲く時期も素晴らしいそうです。

この他にもご紹介したい見どころがたくさんあるのですが、今日のところはこの辺にしておきます。

観光地として多くの方が訪れる京都ですが、ここは比較的静かな環境でゆっくりお庭を楽しめるという点もおすすめできます。


伏見稲荷大社から歩いて行ける距離にありますので、参拝後に、心を落ち着かせ、禅の世界に浸ってみるのはいかがでしょうか。あっそうそう、その前に、私ども福乃家にも忘れず立ち寄って下さいね!(笑)

日本人はじめての新婚旅行

みなさんこんにちは。

以前のブログで豊臣秀吉が伏見の地と稲荷大社に関わりが深い人物であることをご紹介しました。

関白秀吉以外にも伏見に関りが深い歴史的人物と言えば、坂本龍馬もその一人ではないでしょうか。

全国を飛び回る龍馬は、交通の便が良いこの伏見の地にある寺田屋を定宿としていたことはよく知られています。

また龍馬が、幕末の慶応 2年 1月23日 (1866年 3月9日)伏見奉行 の捕り方に襲撃された、いわゆる「坂本龍馬襲撃事件」もこの寺田屋で起こりました。この襲撃で龍馬は、左手と胸部、そして額にも深い傷を負ったと言われています。

そんな龍馬の功績は薩長同盟の仲介役であったり、日本で初めての会社(カンパニー)である海援隊を組織するなど輝かしいものがありますが、日本人で初めて新婚旅行に行ったことでも知られています。

薩摩藩の西郷隆盛のすすめで傷を治すのにとても効能が良いとされていた鹿児島県霧島市にある塩浸温泉(しおひたし)へ奥さんのおりょうを伴い湯治を兼ねて旅行したことが記録に残されています。

この温泉に18日間逗留したそうですが、その効果があったのかやがて龍馬の傷は癒え、再び以前のような元気な姿を取り戻しました。

この塩浸温泉については、国民的作家の一人である司馬遼太郎氏がその代表作 「竜馬がゆく」の中で書き記しています。

執筆にあたり、司馬氏がこの塩浸温泉を取材しようと鹿児島県を訪れるのですが、鹿児島県の人でさえこの温泉のことを知る人がほとんどおらず、温泉宿もすべて廃業してしまっていました。

ともかくタクシーで悪路を飛ばし現地に向かってみると山奥に湯治場が一軒だけ残っており、昔のことに詳しい人に話を聞いたところ、龍馬が訪れた時には多くの湯治客が訪れ、温泉宿もたくさんあってとても賑わっていたようですが、あることがきっかけで湯治客がめっきり減り、温泉街もすっかり寂れてしまったそうです。


皆さん、なぜだか分かりますか?

実は、抗生物質(ペニシリン)がアメリカから輸入されるようになり、この温泉に浸からなくても傷を治すことができるようになったからだそうです。せっかくの龍馬ゆかりの温泉が、、、、。なんだか皮肉な話ですね。


ちなみに、この塩浸温泉ですが、現在では立派な入浴施設も復活し、誰でも日帰り入浴や足湯ができるようになっており、「塩浸温泉龍馬公園」として整備されています。また、竜馬とおりょうの銅像も建っており、当時、龍馬が入浴したとされる浴槽跡も残っています。


龍馬ファンの方は、一度は行ってみたいスポットではないでしょうか。  

競馬好きの人は必見!

皆さん、伏見にある藤森神社に参拝されたことはありますか?

藤森神社は、今から約1800年前に神功皇后によって創建されたと言われており、皇室ともゆかりの深い神社だそうです。

ゴールデンウィークには、藤森祭が行われ、大勢の参拝客で賑わいます。

またこの神社は、駆馬神事が行われることでも有名で、一字書き、藤下がり、手綱潜り、横乗り、逆立ち、矢払い、逆乗りなど数種の技が披露されます。

この神事は、1200年の歴史があるそうで、京都市登録「無形民俗文化財」に指定され、現在も当神社の氏子さんらによって公開保存されています。


このように馬にゆかりが深い神社でもあるので、競馬のジョッキーや調教師などの競馬関係者も多く参拝されるそうです。


ご存じの通り、伏見区には日本中央競馬会の京都競馬場がありますので、最近では競馬ファンも多数、参拝されるようです。果たしてご利益はあるのでしょうか?


それにしても、伏見にはたくさんの見どころがありますね。

船でのんびりの観光はいかがですか?

伏見には豊富な湧き水が出ることから、日本有数の酒処として知られていることは以前のブログでふれさせて頂きました。

江戸時代、この地で作られた伏見の日本酒は、大阪や江戸を中心に全国各地に運ばれて行きました。

この輸送に使われたのが十石船・三十石船です。十石船と三十石船は、積載量が違うというのは皆さんも想像がつくと思います。

石(こく)というのは江戸時代の米を計測する単位で、一石あたり約180リットルを指します。

つまり十石船は、1800㎏の米を積める船ということになります。

三十石船は、その3倍という訳ですね。また、十石船は、船底が平らになっていて、陸でも引きずって運べるような設計にされているため、浅瀬ぎりぎりまで陸に近づけられ、荷物を運びやすいという利点があったようです。

これに対し三十石船は、更にたくさんの荷物を運ぶことができるので、主には、旅客船として淀川において伏見と大阪間を結んでいたようです。


この十石船・三十石船は、現在では、伏見の観光スポットをめぐる観光船として運行されています。


十石船は、日本最大の酒造メーカーの一つである、月桂冠大倉記念館付近から出発しています。

三十石船は、坂本龍馬が襲撃されたことで有名な寺田屋の近くから出発しています。十石船は55分・三十石船は40分で伏見の観光スポットを巡ります。

伏見の歴史を勉強しながらのんびりと船旅を楽しむのもいいかもしれません。

ちなみに、竜馬が襲撃された時の寺田屋は、鳥羽・伏見の戦いの際に焼失してしまったそうで、現在は、その跡地の隣に、当時の寺田屋を再現した、「旅籠 寺田屋」が建てられています。

伏見の人が足を向けて寝られない偉人とは

皆さんは、角倉了以(すみのくら りょうい)のことはご存じですか?

京都の裕福な商家の出身であり、商業と経済の才能に恵まれた人物だったそうです。

彼は、特に河川交通を発展させるために積極的に関与し、伏見の港や水路の開発を進めたことで知られています。

以前、淀川の水運が伏見にもたらした恵みについてブログに書かせて頂きましたが、その淀川の改修工事を積極的に行ったのが、この角倉了以なんです。

また、高瀬川を開削したのも了以の大きな功績の一つです。

物流インフラを整備することで商業が活性化しただけでなく、了以はこの一大プロジェクトを実行するために多くの労働者を雇用しました。

このことにより地域経済がより一層発展したと言われています。


了以は、これらの事業を私財を投げうって行ったそうで、単に商業利益を追求するだけでなく、地域社会全体の経済と交通の発展を目指すという大きな志を持った、まさに偉人です。伏見に住む我々にとっては、足を向けては寝られないお方ですね。


そんな了以の功績を称えた「角倉了以翁顕彰碑」は、高瀬川沿いに建てられています。京阪「祇園四条駅」か「三条駅」で下車。徒歩約10分で到着しますので一度立ち寄られてみられてはいかがでしょうか。

土人形の元祖は、伏見人形!

皆さんこんにちは。皆さんは伏見人形という人形をご存じですか?

京都市伏見区稲荷大社付近でつくられている土人形です。

稲荷山の埴土(はにつち)を用いて始められ,日本の土人形で最古の歴史をもつといわれています。さすが京都ですね。このお人形さんも最古の歴史ですか!


安土桃山時代から伏見稲荷の門前で生産販売されたと伝えられ,江戸時代には各地に製法や形式が伝播したそうで、土人形の元祖とされています。幕末から明治初期にかけては50余軒の窯元が存在し、当時の繁栄ぶりがうかがい知れます。


伏見人形の特徴は、赤、青、白などの鮮やかな色彩や滑らかな表面であり、手の込んだ細かなデザインが魅力です。多くの伏見人形は干支や縁起物を題材にしており、幸福や繁栄を祈願する意味が込められています​。


伏見人形にはたくさんの種類がありますが、中でも「耳土器(みみどき)」は、伏見稲荷の催事に使用される人形で、古来の日本における土器の一種と言われており、特に京都の稲荷信仰と深く結びついています。

この土器は、豊作や商売繁盛を祈願するために重要な役割を果たしており、祭事において神聖な儀式の一部として供えられます。

耳土器は「耳」と呼ばれる特徴的な突起がついており、神への祈りを届ける媒介とされています​​。

この伏見人形ですが、現在、稼働している窯元は、たった1軒のみだそうです。伏見人形の歴史がこの先も継承されていけばいいなと祈念せずにはいられません。

先の戦で焼けまして

皆さん、こんな京都あるあるの笑い話を聞いた事がありませんか?

生まれも育ちも京都の人と遠くから来られた観光客のやり取りです。

京都人「このあたりも、先の戦でえらい焼けましてな~。」
観光客「え~。京都にも空襲があったんですか?知りませんでした!」
京都人「何言うてはりますのん。応仁の乱ですがな~。」


この笑い話は、京都が長い歴史を持つ伝統の街であることをユニーク(自慢げ)に表現していますね。なかなか上手に表現されていると思います。

応仁の乱はご存じの通り、1467年にはじまり、10年間にわたり続き、京都の街は大部分が焼失してしまったそうです。

もちろん神社仏閣も同様に被害を受け、伏見稲荷大社の本殿もすべて焼失してしまいました。

しかし、戦乱後に少しずつ再建が進み、特に16世紀以降には京都の町も復興し始め、再び日本の重要な文化・経済の中心地としての地位を取り戻していきました。

荒廃からの復興を果たした当時の京都の人々のご苦労やご努力は、大変なものがあったでしょうね。


せやから皆さん、京都の人がちょっと『いけず』なこと言わはっても堪忍してあげて下さいね(笑)!

伏見の湧き水とお酒の関係

以前、このブログで、淀川の水運についてお話しましたが、今回は、伏見のお水についてご紹介したいと思います。

伏見に住む人が恵まれているのは、お水がとても良質だということなんです。

それは昔も今も変わってないようです。

伏見のお酒が美味しいのは、作り手の技術だけでなく、豊富な湧き水のお陰でもあるそうです。


地下から湧き出る「伏水(ふしみず)」と呼ばれる良質な軟水からあの伏見の地酒が作られます。

軟水で仕込む酒は、ミネラルが少ないため口当たりが柔らかく、まろやかな味わいになると言われています。

これは、日本酒の風味を引き立て、上品で繊細な味わいを生み出します​。また京料理にもとても合いますよね。

京料理で使われる昆布や鰹節の出汁と、伏見酒の甘みが調和し、絶妙なバランスを生み出すようです。伏見の人は、本当に幸せですよね。


伏見稲荷大社の参拝が済んだら、是非、伏見の酒蔵にも立ち寄ってみて下さい。

淀川の水運が伏見にもたらした恵み

淀川は、大阪府と京都府を結ぶ貴重な水運ルートです。

その淀川の支流として伏見市を流れているのが、「宇治川」や「桂川」です。

これら水運を利用する事で、伏見地域にはさまざまな物資が効率的に運ばれ、商業活動が活発になりました。


物資だけでなく人の移動も容易になったため、他の地域からの文化も流入し、伏見の文化的発展も促進されたみたいです。


また、伏見は、淀川の水運と東海道などの陸路の交差点でした。

特に、江戸から京や大阪への旅や参勤交代の途中で、伏見は中継地点として重宝され、多くの旅人や商人がこの地域を通過しました​​。

そのため、多くの宿が作られとても賑やかな街に発展していったようです。


淀川の川の流れは、われらが伏見地域に大きな恩恵をもたらしてくれてますね。
川の神様にも感謝ですね。